明日も暮らす。

小さな生活改善を愛する、梅つま子の日記です。

『新エミール』を読みました。

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最近読んだ本の紹介です。

 

新エミール (ちくま文庫)

新エミール (ちくま文庫)

 

 

1979年刊行の本ですが、今の私が読みたかった、必要としていたことばをもらって、育児に向かう心が軽くなった気がしました。

心に響いたところを挙げていったら、引用が膨大なことになりました。

いいなと思ってくださる方がいらっしゃるかもしれませんので、紹介しますね。

(以下、見出しは私が便宜上つけたものです。)

 

■おむつはずれについて

”人と比べてもしかたない”と思っていても、つい心に気にしてしまう。娘が3歳を目前にして、もっとお誕生日が遠いお友達がお姉さんパンツになっても、まだおむつをしているということ。以下を読んだら、楽になりました。

いまの日本の文化は、あまりにも土から離れてしまった。身のまわりを人口の産物で飾り立てすぎている。そのために、自然との近親感がうすれてきた。自分自身がもともと生物という自然的存在であるにもかかわらず、それを忘れて、自然をうとんじることが多い。排泄物は、人間が生きる現象そのものであり、大地へ循環して、かならずまた人間に戻ってくる。その排泄物を不浄としか受け取れぬ感性は、自然だけでなく人間自信をも侮辱していることに容易に気がつかぬ。このような感性は、かならず手痛いしっぺ返しを喰うだろう。(中略)排泄のしつけで起きるトラブルは、多く、こうした非自然的な感性に由来している。排泄物に対する激しい嫌悪感、それを意に介さない人間への侮辱と憎悪感、少なくも早く排泄物を始末できるようになってほしいという期待感が、赤ん坊とのあいだに大きなギャップを生む。赤ん坊のほうには、もっと別の感性がある。排泄物はわが分身であり、愛着を覚えこそすれ、嫌悪感は湧かぬ。いつ、どこで排泄をしようと、それはまったく自然の生理が命ずるままだし、排泄物で衣類や家屋を汚そうと頓着するところではない。そんなことより遊びと食事、睡眠に没頭するほうがはるかに楽しい。(中略)だから、赤ん坊とともに暮らすときには、大人の側の完成を鍛え直す必要がある。だれしも、赤ん坊の世話をするものは、おむつの扱いには慣れてくるが、あの感じを今少し持ち続ければよいのだろう。少しぐらい年が大きくなっても、トイレでしないからといって、目くじら立てるいわれはない。おむつを取ることに精力をさき、わずか数カ月の早いおそいを争って消耗するなどはつまらぬことだ。赤ん坊には、やりたいことがたくさんある。それをのんびりと、できるだけたくさんやらせよう。(p.62-63)

 

■「虫封じ」のことについて

最近はずいぶん娘のことばも増えてきて、だいぶ言ってわかるようになったので、だいぶラクになってきた感もあります。

しかしながら、”魔の2歳児”の言葉にたがわず、これまで、娘、たまーに、手の付けられない暴れん坊娘になることがありましたっけ。そのことを「虫」と考えるとずいぶん気が楽になります。

私が子どもの頃には、まだ宇津救命丸のコマーシャル、やってた気がするんですが、そういえば最近トンと見ないです…。

このあいだ神社を通りかかったとき、「娘の虫ちゃんがいるのなら、穏やかにおさまったままでいてくださいな~」と心の中でお願いしておきました。ちなみに虫ちゃんは、この子のイメージです。笑。

以前いただいた木製の虫ちゃんで、名前はみどりちゃんです。

ネフ社 ジュバ 緑 (naef Juba)

「虫封じ」というのは、面白いやりかただ。子が「かん」を立てるのを、そのまま親のせいにせず、「虫」がついたのが悪いとするのは、すぐれた生活の知恵といえる。そうすれば、人間自身を傷つけないし、めでたく「虫封じ」に成功すれば、「虫」がおさまったあとの人間はまったく正常にもどるわけだ。このやりかただと、「かんの強い子」をもった親の心は楽でいられる。「虫封じ」に神社やお宮に通うことが、精神のリクリエーションにもなって、親の赤ん坊への対応を気楽にさせる効用もあるだろう。(中略)結局、活動的な子は、最初から、そういう子だと思って、そのようにやらしてやったほうが楽だったのだ。赤ん坊の時期の落ち着きのなさは、おとなになって、どのように変るか分かったものではない。このことでは、両親をはじめ先祖の歴史を見てみると面白いだろう。だれかが、赤ん坊の時期、同じような振舞いをしていたのなら、その人と似通た将来の姿が彷彿とする。(p.68)

 

■その子はその子でしかない

日々、いろいろ、あーでもないこーでもない、と悩んでしまいがちですが、

なんというか、(語弊があるかもしれませんが、)”しょうがないよね!気持ちよくあきらめよう!”という気持ちになった文章です。

赤ん坊には、自分のやりかたで、世の中を生きさせよう。 なにかつけ加えたければ、そのやりかたを崩さぬ程度に持ち込むことだ。性格に対しては好みがあるが、赤ん坊の性格を意のままに変えることはできぬ。できるのは、赤ん坊が持って生まれた性格ととことんまでつき合って、そこからなにかをつけ加えるくらいのことしかない。(p.69)

 

■うそをつくことについて

以前娘が「きのうでぃずにーらんどいったの^^」と言っていてびっくりしたことがありました。

その時点でディズニーランドは一度もいったことがなかったので、こんな小さいうちから嘘つきになったらどうしよう・・・?と思ったのですが、こんな文章がありました。

幼い子の大きくなりたい希望、強く優れてありたい願望は、 きわめて単純な仮構の表現をとる。実際には就学前なのに「きのう学校にいった」といったり、塀が倒れているのを見て「ぼくがやった」などといって驚かす例 は多い。上の子の学用品や母親の服飾品を盗んで、自分のだと主張するのも同じ心理だ。これを聞いて「うそつきになる」と心配する必要はない。もとは「ごっこ遊び」なのだから、真に受けて、いっしょに遊びの世界に入ってやればよい。このくらいの仮構がなければ、人生はわびしい。おとなさえ、むしろおとなのほうこそ、いろいろの仮構をつくっては楽しんでいる。ファッション、儀式、ゲーム、芸術など、みなその最たるものだ。(p.177)

 

■しつけについて

 自己主張がはっきりしてくるにつれて、いろいろ口やかましく言いたくなってしまいます。おやつのこととかお風呂のこと、帽子をかぶる・かぶらない…みたいな小さいことの攻防も。

そういうことが起こるたびに、自分が試されている気がします。自分の信念がどうなのか。自分が楽するためとか、体面のために、娘に何かを強いているのではないかとか。

ともすれば、「しつけ」には、おとな自身の自己否定の契機、すくなくも、子どもとともにおとなも変わっていくというモチーフをはらみ込まねばならぬことになる。い かに幼い子どもでも、おとなの矛盾やごまかしは見て取れる。同じいたずらをしても、あるときはきつく叱られ、他のときは見すごされる。うそをついてはいけ ないと教える親が、目の前で平気でうそをついている。そうしたことを不問にして、建て前だけ通していても、「しつけ」は内面に定着しない。「しつけ」は、おとなも迷い、困り、怒り、信じ、喜び、安心しながら生きているのだという真実をかくさず示すことからはじまる。子どもがそこに醜さではなく、 愛着を覚えてくれたなら、はじめて地について成立する。内面化に成功した「しつけ」なら、あらゆる局面に応用がきく。自分の内面に判断の基準ができている からだ。幼い子のばあい、それは信頼するにたりる大人の存在とその支持によって、より強固にされる。逆に内面化していない、外部からの強制による「しつけ」では、行為の自己選択の能力は成長しにくい。いちいち非難を恐れて行動するような人間になる。こうして「しつけ」は、技術ではないということになる。「教育者」の専門的な知識と方法に頼らなければできぬものでも、けっしてない。必要なのは、当の子どもとおとなとのあいだの愛と信頼の関係なのだ。愛は純情を呼び、信頼は誠実を招く。じゅうぶんに愛されていると感じる子どもは、素直に行動できる。信じら れていると思えば、それを裏切るのはむつかしい。だが、この愛と信頼の関係も、忍耐を伴わなければ、すぐ破綻が来る。おとなと子どもの間では誤解が多いし、価値観の差も大きい。その溝を埋め、橋をかけるには、相当の努力と時間が要る。そ のことに耐えられぬおとなは、絶えず子どもを監視し、管理し、ついに我慢ができなくなって命令と処罰というまったく愛と信頼に反する手段にでてしまう。そ の結果は、子どもの気質が弱ければ打ちひしがれて自己実現ができず、強ければ要領のよい逃亡か抑制を欠いた反抗に出て、同じく安定した自我の形成に成功しにくい。いずれも見ていてみじめであり、窮屈な感じがする。どうやら、子どもをしつけようとするものは、楽天的で気長であることが求められているようだ。 (p.164-165)

 

 ■「反抗期」について

本格的な反抗期はおそらくこれからですが、子どもの自我と向き合う私の覚悟を、もっともっと育てていかないといけないなと思います。

「反抗期」といわれるものは、あったほうがよい。反抗は、自我を確立していくのに、不可欠の手段だ。それがなければ、他人のいうなりになって、他人と自分との区別がなくなる。他人と自分とのあいだには、かならず対立、相克があるのだから、それをなくそうとすれば、他人か自分かのどちらかを消滅させなければならない。子どもに反抗をさせないということは、子どもの自我をなくすことに通じる。(p.171)

 

■けんかについて

娘がお友達に「どうぞ」できなかったりすると、どうして…(-"-)と、私がつらくなるのですが、けんかが大事だということや、けんかを未遂で止めることのよくなさを感じました。

けんかは原則としてとめないようにしよう。生命の危険とか重大な損傷が迫らない限り、放っておくのがよい。け んかを途中でやめさせれば、そのもとになった動因は未解決のままに残される。おとな、とくに親が干渉をすれば、我慢させたほうが、親から愛されていないと いう感情にとらわれ、不必要に相手にたいする敵愾心をつのらせる。相手の目の前で、こともあろうにわが親から叱られたり、ぶたれたりしようものなら、たと え自分に非があろうとも、憎悪の念に火がついてしまう。ここで、親どうしの関係が問題となる。互いに遠慮があり体裁を繕わなければならぬ間柄だと、ちょっとしたけんかの勃発でも、わが子のほうを制止し、たしなめる。両方がそうするから、子どもたちはほとんどいつも引き離されていなければなら ず、親たちも消耗する。親どうしが親密でざっくばらんな付き合いなら、少々のけんかは横眼で見過ごされる。ひどくなっても、ちょっと怒鳴っておけばそれで済む。もし関係がそこまで至っていない状態で、無用の気を使わぬようにしたければ、最初に、けんかは互いに止めないで放っておこうと約束しておくのがよい。(p.183)

 

それから、自分自身のこれからの生き方についても示唆をもらえた文章がありましたが、長くなったのでまた別の記事にまとめたいと思います。

毛利子来さんの文章は快い美文で、なんというか、たとえて言うなら祖父からの言葉のようでした(私が生まれた時点で祖父は二人とも他界していたので、イメージ上の”祖父”ですが…)。

温かく心強いメッセージでした!

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