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明日も暮らす。

小さな生活改善を愛する、梅つま子の日記です。

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『新エミール』から考えた、自分の生き方のこと。

読書記録 考える 自分のこと

 以前も紹介した、『新エミール』の話です。

 

umet.hatenadiary.jp

全体を通して、一番心を動かされたのは、以下の文章です。

長いのですが、引用します。

 

とくに母親は、主婦としてあるばあい、子どもにのめりこみやすい。自分自身の仕事はなく、夫と子どもの世話に生き甲斐を見いだしていれば、その世話する相手 への思い入れは大きくなる。それでも、生活に腰を据え、家政を取り仕切り、子を育てあげることに自分の生活を貫くことができれば、そうしたのめりこみは避 けられるかもしれぬ。そのばあいは、生活自体が心張りになっており、夫や子どもからの見返りに生きているわけではないからだ。わ たしは、そういう女の人を少なからず知っている。まず、わたしの祖母がそうであった。彼女は、幼くして両親を失ったわたしを一手に引き受け、戦中から戦後にかけての苦しい時期を必死に生きた。自ら戦傷を負い、廃疾になった夫をかかえ、貧窮に陥るなかで、畠をつくり鶏を飼い、縫いものをしながら、懸命にわたしを育ててくれた。わたしが彼女の意にそむいたことをしても、ただ黙って仕事をしつづけるのだった。まるで生活の鬼のようであった。でも、そこには静かで深いやさしさをこめた気迫があり、わたしはいつのまにかその世界に引き込まれていくのを感じていた。医者になってから接する母親たちのなかにも、このような心張りを持つひとたちを見た。いまは戦時ではないから、祖母のような悲壮さはないが、生活に打ち込んでいる時点で同質なのだ。お金になる仕事にでていようといなかろうと、暮しにどっしりと腰が据わっている。静かで落ち着いている。夫や子どもにやかましくない。多くはニコニコとやすらぎを与えてくれる感じだ。だが、残念なことに、たいていのひとは生活が方便あるいは享楽としてあり、夫と子どもへの期待が精神の中核になっている。こ のように精神の中核が自分の外に置かれた人間は不安定にならざるをえない。外にあるものは当然、自分とはちがう軌跡で動く。思い入れにまったく反する動き すらしかねない。そのときに、精神は激しい衝撃を受け、当の相手を非難攻撃するか、自らを責めて、なんとか立て直しを図ろうとする。その結果、相手を取り 込むことに成功すればよいが失敗すれば相手を断罪するか、自虐に陥るほかはない。(中略)母親の一個の人間としての独立は、おそらく社会的な存在となることによって果たされるのだろう。それはかならずしも職業を持つことだけを意味しない。外に勤めに出ていても、夫と子どもに気を奪われているのでは、社会的な存在になっているとはいいがたい。家庭にあっても、自分なりに打ち込んだ生活を築き、そこに必然的に絡まる社会的な問題にも立ち向かっていく迫力を持てば、りっぱに生きているといえるだろう。とにかく、母親は子どもとは別のとこ ろに自分の人生を持つべきだ。子どもはけっして思うとおりにはならぬ。しだいに親のいうことをきかぬようになり、やがては親の思いもつかぬ世界へと飛翔していく。育てるという行為は、楽しさの陰につねにこうした悲哀を準備しているのだ。この悲哀は、それを避けようとして子どもを所有しつくそうとすれば、結局はますます激しいかっとうをもたらすことにあるだろう。そのような空しい努力を重ねるより、子どもとは相対的に独立した自分をふくらませていくほうが稔 りがある。そうすれば、子どものことで精神を攪乱されないですむし、そのゆとりある気持で子どもとむつみ合えば、たがいに得るところがあるに違いない。両者が所有の関係でなければ、相手を認め受け入れることが可能だからだ。そこには支配と反逆、獲得と喪失の相克はない。深くこまやかな思いやりと地についた 生活に生きる女性的な原理は、こうしてこそ、より強く発揮されることになる。女性が自分自身の生き方をはじめたとき、それは自然にじみでる。この原理の発揮は、打算と競争による上向き志向の強い現代社会にあっては極めて貴重である。子どもは、この原理に包まれて育てられれば幸せだ。(p.153-156)

 

4月から、専業主婦生活に入り、すぐに気づいたのは、仕事を辞めたからといって、足理想の母になれるはずもないや!というあたりまえのことでした。

娘にどう向かいあっていくか。仕事という、一日の時間の中で大部分を占めるモノを手放した私は「言い訳ができなくなったな」と思いました。

今までは、娘に対して100%の対応ができなくても、「しょうがない!働いてるし!」というような言葉を自分にかけていた気がします。

仕事を手放してから、娘の育児に向き合う自分の心は、硬くも、柔らかくもなったと思います。

硬くなった、というのは、前述の、言い訳がもうない、という思いによるもので、良い母プレッシャーを勝手に感じる自分を持て余しています。

他方、柔らかくなるというのは、時間が自由になり、ストレスから自由になったことで、ゆるい気持ちで娘に向かい合う時間は確実に増えました。

仕事の半ばで放りだすように帰宅して、帰宅してからも娘を膝から降ろしてパソコンに向き合い、娘が寝てから途中で起きだしてまたパソコン…という生活には、限界が来ていました。

 

でも。

仕事があるから、仕事を辞めたから、という点から娘の育児を考えていくのは、なんだかずれている感じがしていました。何だかそこから一歩も進めないように思えたからです。

そのモヤモヤした気持ちがようやく形を取り始めたのは、上に引用した、

自分なりに打ち込んだ生活を築き、そこに必然的に絡まる社会的な問題にも立ち向かっていく迫力」の文章に出会ったときだったかもしれません。

 

私は家のことをやるから、夫には仕事を頑張ってもらう。

育児をしっかりやる分、娘にはお利口さんに育ってほしい…

そんな気持ちを見透かされたような気がしました。

 

そうじゃなくて、大事なのは、私は娘がどうであれ、夫がどうであれ、私の生活を追求していくことなんですよね。

 

そのヒントになりそうな文章は、本書中にたくさん見つけることができました。

子どもにはやさしさが必要だ。他人から心に染み透るやさしさを体験した子どもは、やすらぎを得、他人にたいしてもやすらぎを与えられる人間になるだろう。そうした人間をつくることが、教育の基本にならなければならぬ。やすらぎは欲望を低い水準に置く。物質的にも、人間にたいしても、あまり多くを求めない。(中略)やさしさは、人間どうしが共に生き、共になにかをなすときに、その基底に坐っているべきものである。や さしさを欠いた契約、統制あるいは熱狂は、一見ことをスムースにスピーディに運ばせるかもしれないが、恐ろしいほどの空虚感を秘め、いったん瓦解しはじめれば、きわめてもろい。やさしさが介在する関係は、多く非能率的であり、不分明でもあるが、しっとりとした充足感が味わわれ、長持ちしやすい。(p.151-152)

 

「問題」が発生したら、周囲の状況のほうを検討し、それをこそ変えるよう努めるのが本筋だ。環境条件が悪いとか、おとなの要求に無理があったときには、それら を改めるだけで「問題」は氷解する。子どもの側にも「問題」をもたらす要因があったとしても、おとなの側が自分も含めて変わろうとするならば、ずっと解決は容易になる。一方的な説教でなく、いいぶんを聞きながら、なるたけそれを生かそうと努める姿勢は、きっと子どもにもおとなの要求に応えようとする気持をおこさせるにちがいない。(中略)性向は、表現型だけで善悪を判断することを許さない。現にある社会への適応だけを願って、性向の陶冶をはかるのは早計にすぎる。社会の状況は将来いくらでも変るのだし、また社会の矛盾を変革しうる主体的な性向 も育てなければならぬのだ。そのことを思えば、世俗的な目標、たとえば世渡りが良くできる、成人したときに高い生活が保証される、そのために行儀がよく、 知識と力に富み、他人とは下手に争わないといった徳目を求めるのは、真からの性向の陶冶にはならぬ。(中略)わたしたちの子どもには、自分自身に自然な、外界と美しく交わえる性向を育てよう。そのために多少の苦労があり、損があっても、精神は安定し行動も確かだか ら、迷うこと少なく生きていける。不条理にたいしても強い信念をもって闘うことが可能になる。こうした性向の中核になるのは、おそらく、誠実、正直、お人 良し、真・善・美への感受性、愛、慈悲、寛容、献身といった徳目だろう。これらを養うには、ことばや施設内での教育ではまったく足りない。社会のなかで、 暮しと労働を通じて、多くの人の善意と努力に触れねばならない。そのためには、家事を手伝い、親の仕事を見させ、近所の人の生活と労働に近 づかせるのがいちばんだ。家事には直接人間のための労働があり、働く人たちには額の汗と厳しさがある。その忙しさのなかで垣間見せてくれる思いやりとやさ しさは、幼な子の心を深くとらえるにちがいない。また、老人とか赤ん坊、病人とか障害者にも親しく接しさせるのがよい。かれらには、働き盛りの人間には欠 ける情念や徳性がある。このような実社会との触れ合いは、ときに激しい不正や憎悪に出喰わすばあいもあるだろう。このことが、子どもの対抗する力と方法を 鍛えてくれるにちがいない。(p.188-190)

 

現代の「発達」は、競争の契機を強くはらむことになる。「自立」は、他人への援助を排除しようとする。他人からの援助を受けることも、人格の欠損を意味す る。なんでも自分でやれ、おれはおれでするといった風潮になる。そのうえに、感覚も知能も良く精製されなければならない。ここでは精製度が問題だ。それは 程度が高いほど良い。ああ、この競争こそが、不幸の源だ。そのゴールには、わずかの旗しかない。もともと、現代社会は、少数のテクノクラートがいれば、あとはその技術と管理にしたがって動く人間でありさえすればよかったのだ。この少数のエリートを養成するために、競争を行なわせる。だから、教育における「落ちこぼし」は予定調和なのだ。「自立」もできない人間は、この秩序にとって負担でしかないから、なるべく早く「正常」に「治す」か、せいぜい別の枠のなかで生きてくれということになる。さ まざまな福祉サービスの隆盛、そして「発達」を促す情報産業の跳りょうは、こうしたところに基盤があったのだ。(中略)発達がと割れるとき、それはいかに も人間本来の生物学的な、あるいは医学的、心理学的な現象であるかのように持ちだされてくる。そのために、発達の「おくれ」が、すべて絶対的な「異常」に されてしまいがちだ。じつは、発達は社会的、歴史的な現象なのだから、子どもだけの固有の問題ではない。社会との相互の関係性によって決まってくる性質のものだ。衣 服の着脱や食事の摂取が自立できていないといっても、じつは、衣服や食事の形態にもよるし、生活全体の流れにもよる。着脱しやすい衣服と困難な衣服がある し、食にも食器の要不要、用い方によってかなりちがってくる。生活があわただしく、短時間に次の行動に移らなければならぬようなスケジュールでは、「自立」できない子どもは増える。友だちが助けてくれるような集団なら救われるが、競争的、排他的な集団では問題となる。そもそも、「自立」というのは、自己完結を意味するものでありうるか。他人から離れて自分だけですべてをやっていくなどは可能であろうか。事実は不可能を物語っている。どんな行為でも、他人の厄介にならずにやれているものはあるまい。衣食住にしてからが、その素材は他人が生産してくれたものだし、それを使っての暮しの全般も、広く他人に依存している。まったくのロビンソン・クルーソーではないわけだ。そうであるのに、あたかも自己完結的に自立が成立する可能ように考えるのは、それを支えている他人の助力を空しくするものだ。(p.196-198)

 

自分なりに打ち込んだ生活を築き、そこに必然的に絡まる社会的な問題にも立ち向かっていく迫力」は、これからの自分のテーマになりそうです。

 

自分なりに打ち込んだ生活。

そこに必然的に絡まる社会的な問題。

どういうことがそれに当たるんだろう。

育児のことや、今勉強している保育や、これまで学んできた分野は、それにかかわるのかなあ…。

自分の生き方について、大きな宿題をもらったような気がしています。

 

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