ブログを書いていて気づいたのですが、
私の妊娠週数と、このブログの継続週数は同じでした。
なんかうれしい!
記事も200くらい溜まってきたので、妊娠がわかった2,3月あたりの記事をぽつぽつ読み返してみました。
ちょうど仕事を辞める決断をした時期だったこともあり、
何だかこう、眉根にしわが寄っているような自分の姿が目に浮かぶようでした。
我ながら…つらそう。
今の私はもっと怠惰で気楽だわ…。
最近になって、
娘が赤ちゃんの頃、読んだ本のことを思い出しています。
この本に出てくるお父さん、
子どもにどれだけ部屋を散らかされても、動じないのです。
「いいとも いいとも」と、おとうさんは いいます。
「もういちど、さいしょから はじめるさ」
勉強でも仕事でも家事でも、私がこれまでしてきたことのほとんどすべては、時間をかければかけるだけの成果が残るたぐいのものでした。
せっかく片づけた部屋を再び散らかされ、片づけを「もう一度最初から始める」ことの徒労感。
そのきつさを、私はこれまでの人生の中で、ほとんど味わってこなかった気がします。
20代、30代のはじめ。仕事を始めたころ。
子どもがいなかったとき、仕事の世界では、時間をかければだいたいどんなことでもできたし(新人だったので、新人なりの仕事しか任されなかったということももちろんあったと思うけど)、
その業務をなすための時間を、ほとんど無限にかけることができました。
うまくいかないことももちろんあったけど、そういうときでも、賃金という名の報酬は得られました。
子どもはかわいいし、子どもがいることで初めて経験できたことたくさんあります。
なので子育てが報われない、とは思わないけれど、
これまで、学業や仕事をやってきたときのパラダイムと、子育てのそれは違いすぎて、
やりたいだけ仕事ができた時代、仕事をやることで、達成感も有能感も報酬も得られた時代が、ただ懐かしいです。
学生時代、そして子どもがいなかった時代の私は、
自分の持てるすべての時間を使って、”自分”を育てる「育自」を続けていたんだと思います。
ケア対象のいない生活の中では、自分が”自分”を育てる「育自」をし、社会人としてレベルアップすることは、正当性があると思います。
そして、「育児は育自」といわれるように、私は今、育児によって「育自」しているとは思います。
でもそれは、独身時代や、子どもを持っていなかった時代、「育自」のための「育自」とは違います。
娘という最大のケア対象がいる今、「育自」は、「育児」のあくまで産物だと思うので。
パラダイムを変えるのはしんどい。
だから、ずっとパラダイムを変えずに、仕事を中心として生きていられたら。
苦しいことも、もちろんあったはずですが、職業人としてもっとレベルアップできた自分にも出会えたのかもな、という気持ちにも、ちょっとなります。
でも、有限の人生で、私は自分が自覚する前に、もしかしたらこれまでの「仕事中心パラダイム」に飽きたのかもしれません。
子どもを育てるという未知の世界で、無知で無能な自分に直面し、
何度も何度も自分自身にがっかりしながら、それでも手探りで、不得意だった分野、知らなかった分野に、もはや柔軟ではない頭と体で取り組んでいくのはちょっとした苦行めいているけれど、それだからこそ家族や友だちの力を借りて、何とか頑張ろうと思える。
退職にまつわるいろいろは、3月以降、似たようなことをこのブログにもつれづれに書いている気がしますが、
書くたびに、ほんの少しずつ楽になっている自分に気づき、こころの整理が進んでいるように思います。
いいことばかりではなくて、しんどくて一日が終わることもあるけれど、
このブログのタイトルにしたように、「明日も暮らす。」という気持ちで、
毎日を迎えていこうと思います。