明日も暮らす。

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シンプルで暮らしやすい生活を目指しています。オンライン英会話(英検1級)と空手(黒帯)が趣味。大学院博士課程修了(人文科学)。2児の母。

「何をされても許す」ことには、メリットがたくさんある?

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先日手に取ったこの本。

 

「好き」から始める暮らしの片づけ (正しく暮らすシリーズ)

「好き」から始める暮らしの片づけ (正しく暮らすシリーズ)

 

 

目次を見たら、目が点に。

 

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「女のやることはすべて許す」

えーと、私が手に取ったのは片付け本だよね?!と思った、この見出し。

「女のやることはすべて許す」って、何じゃー!?

ドキドキ

 

本文にはこうありました。

ジェンダーフリーな時代ですが、

女性の立場はまだまだ弱いもの。

女どうしが手を取り合わなければ、ますます生きづらい世の中になると心配しています。

そういう意味では、職場の同僚や学校のママ友は、共同体で仲間。

せめて一緒に過ごす間は、仲良くしたいのです。

(中略)

私の経験から、

一部の人と仲良くすると、

場が乱れる一因に。

選り好みや抜け駆けを女性は不安に感じます。

だから私は、誰とでもつき合う、と決めたのです。

そして、何をされても許す、と。

 (p.115)アンダーラインは引用者(梅つま子)による

 

気になったのは、下線のところ。

一部の人と仲良くすると、場が乱れる。これはわかる。

選り好みや抜け駆けを女性は不安に感じる(女性に限定したことじゃないかもしれないけど)。これもわかる。

だから誰とでも付き合う。ふむふむ。

問題はここから。

「そして」と筆者は軽くつなげているけれど、ここまでの話を踏まえて「何をされても許す」は、論理に飛躍があるように、私は感じる…。

 

それにしても、

何をされても許すって、すごいな、懐の深さ、桁違い。

 

その日はずっと、頭の中で「何をされても許す」がグルグル…。

それくらい、すっごいインパクトだったんですよね。

私には無理かも、と思っていましたが、

だんだんと、私もそうしたいのかも。と思うようになりました。

 

私は、たいていのことは寝て食べれば、わりと忘れます(ドヤ)。

だけど、みんな生きていればいくつかそういうのがあるかもしれないけど、

私にも、うまく許せないできた出来事や人が、これまでの人生で二つ三つあります。

そのことを思い出しながら、考えてみました。

 

そして、「許す」と決めておくことは、いくつものメリットがありそうだ、と思い至りました。

 

許した上で、向き合ったほうが生産的。

許すと決めたって、すべて相手に合わせて、ハイハイわかりましたーと迎合するわけではないのよね。

許すことは、向き合わないこととは違う。

むしろ、許した上でのほうが、自分が何を問題と感じているのか、しっかり向き合うことができそう。

 

許すかどうかわからない、という悩み自体を断捨離する。

許すかどうか?と考えることってすごくエネルギーを使う。

人間のエネルギーは有限だから、そんなことに関わるのってすごく消耗するのをやめちゃえば、気持ちも楽になるし、大事な時間を浪費することはない。

 

許したって許さなくたって、結果はあんまり変わらない。

世の中には、合う人も合わない人もいる。

合う人は、親しい友人になって、それから何年も連絡を取り合う関係になれるけど、

そうじゃない人は、最終的には「合わない人」(物理的にも、性格的にも)となって、

顔を合わせる機会がなくなっていくだけだと思います。

「合わない人」とのあいだにちょっとしたコンフリクトがあったとして、

その人の根本を変えることはできない。

場合によっては、謝ってもらうことすらできないかもしれない。

相手がそのことを、謝るべきことだと思っていなかったら。話し合っても、なにも変わらない事だってある。

私の心の中での「許すか、許さないか」は、関係性を決定付けるような重要なものではないのかも。うん、なさそう。

 

なんとなく気まずく終わった関係はずっと後を引く。もったいない!

小学校から仲良くしていたのに、中学校でちょっとしたすれ違いの後、卒業して顔を合わさなくなった関係がありました。

別に大きなけんかをしたわけじゃないのに。

もし、お互いちゃんと挨拶ぐらいできるようになった後だったら、

再会して、もしかしたら楽しいお茶とかできる日が来てたかも。もしかしたら、お互いに子連れとかでさ…?

そう考えると、とってももったいない!

今考えると、今よりもずっと若かったんだから、

細かいことにこだわりすぎてないで、自分から歩み寄ればよかったね。

 

 

 

 

それなら、何があっても最初からボトムラインを「許す」に決めておくのは、アリなのかも。

過程で何があっても、最終的に私は許す。

その上で必要があれば、起きたコンフリクトや、相手、そして自分の感情に向かい合っていくほうがよっぽど生産的のような気がしてきました。

 

 

 

ほとんどのことは、何回か食べて寝て、を繰り返せば忘れる私。

それでも、いくつかは経験することになった、うまく許せなかった出来事や人。

そのどれも、私が勝手にショックを受けて、私がショックを受けたことさえ自分の口からは相手にうまく伝えられないで、なんとなくうやむやにして、離れていきました。

 

私は、逃げることを悪いことだと思っていないし、場合によっては最善の方法かもしれないとさえ思うんだけど、

相手に伝えてもよかったかな、と思うことがあります。

相手の言動に、自分が傷ついたということを。

何のためかといえば、その後を生きていく自分のために。自分の

 

うまく伝えられても伝えられなくても、

「結局は、私は許す」という最後のところを決めておいたなら、後ろ足の軸が定まるように、言えたかもしれないなあ。どうだろう…。

 

そのほかの本の内容がほとんど残らないほど(ごめんなさい)、

”何をされても許す”、は衝撃でした。

 

…やっぱりどうしても許せないことはあるような気がするから、

”何をされても”というのが、ほんとにほんとに何をされても、なのか、まだちょっと引っかかるけど、

「何をされても許す」のことを、心に留めておこうと思います。

 

 

 

 

そんなことを考えていた朝、

ラジオから、さだまさしさんの歌が。

「たくさんのしあわせ」という歌でした。

 

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© 梅つま子