おそらく数ヶ月前(産後半年くらいかな?)に書いたと思われるメモが出てきました。
こんなメモです。
なんか、たぶん、専業主婦のアイデンティティのことについて書いてあるみたいです。
解読すると、
(私は)家族に、金銭以外の価値を創造する存在。
時間や体力をリソースとして、
スケジュール管理や人間関係の構築および維持調整、
情報収集などを行い、家族の最適解を導く。
イベントのようなハレの企画、家事全般のようなケの日常を通じて、
試行錯誤のなか、
家族の快適なあり方を模索し、
家族の幸せなあり方を探求していく。
というようなことが書いてあります。
たかぶってるな…!
よっ、産後!
まあでも、今と考えていることは大して変わらないな。
さすが同一人物。
あんまり時間経ってないしね…。
自分のアイデンティティとか存在意義みたいなものを、
他者(ここでは家族)にどっぷり依存した形にするのはいかがなものかと、わかってはいます。
でも、実際、過ごす時間のあり方とアイデンティティは密接にかかわる。
私が世話をしなければいけない子どもと24時間365日一緒にいると、
その時間がすなわち私になる。
かつて自分が何をしていて、どんなだったかよりも、
今の自分がどんな24時間を過ごしているのかが、自分をつくってる。
今のところ、「家族の最適解を導く」とか「家族の幸せなあり方を探求していく」というのは、
(そう思わないとやってけないからだとは思うけど)
なんだかそれ自体が自分の趣味というか、楽しみながらやっていくこと自体が楽しくなってるところもある。
家事については、なけなしの技術でたどたどしく、自分でやるのも悪くない、と思える瞬間もある。
しかし私は常々、家事か育児か、担当をどちらかにしてくれと思っているので、
家事をしているときは、疲れたとか面倒だとか思ってることも多いです。
食事を外食で済ましたり、食卓にお惣菜を並べたりすることができるように、
家族のための営みの多くは外注できたりします(そして実際、何度もその恩恵を受けている)。
食事に限らず、外注し、お金を払ってプロにやってもらう、というのは場合によってはとてもありがたい。
特に、時間がかかり、体力や技術の要る、エアコンの掃除とか換気扇の掃除とか風呂の徹底掃除とか、主に掃除系の家事。
でも、
どの業者にやってもらうかとか、
日程どうするかとか、
その日誰が家にいて対応するのかとか、
値段がどうかとか、
これから定期的にやってもらうのかとか、
そういうことのいろいろを考えることは、割愛できないプロセスで、誰かがやらなきゃならない。
その誰かって、他でもない私なのよね。
それを思えば、だったら結局、つたなくても自分でやるのは比較的、悪くないようにも思える。
面倒なこと、技術のいることを、自分でもできる形に修正していくのは本来、それ自体楽しいことだし、生活者としてのレベルアップだと思う。
成長は、いいことだ。
うん、専業主婦としての、このアイデンティティのことを、それなりに気に入っているんだね。
そしてさ、外注できることも多いけど、できないもやっぱりある。
あと、外注しようと思うととてつもない手間とお金がかかるとか。
仕事を辞めて専業主婦になるとき、
何を外注し何を外注しないと考えるんだったら、もう一手に自分で引き受けるよ。
毒食らわば皿まで(表現どうなの)的な、やけくそ的な気持ちがあった気がする。
…しばらく忘れていたけど、そんなようなことを、息子を産んでから、よく考えていたみたいです。
冒頭に「 (私は)家族に、金銭以外の価値を創造する存在」って書いてあるけど、
働いているときは、こういうことを考えることを拒絶していた気がします。
働いていてるということで、稼いでることで、家族の中で果たすべき責任が、免除されると思ってた、のかな。そうじゃないのに。
働くことはあくまでも付加的なことで、
母親になって生じたケア責任と取り替えっこできるようなものではないと理解してなかったのよね。
ワーキングマザーなら当然わかっているべきことを、わかってなかったな。
メモの最後に書いてあるのは今後の課題で、
それ(主婦業)を通して、自分がどういう技術を身につけていけるのか、どういう成長をしたいのか、どういう人間になりたいか?(をもっと考えなければならない)
ということのようです。
育児中心の毎日、家事育児にフルコミットしないとやってけないし、
今がそれなりに楽しいと思えるのはありがたいことなんだけど、
それを通して自分がどうなりたいのか、もっと考えたいなあ。
この日々が一段落するころ、私はどうなっていたいのか。
だって子どもが手を離れるころ、私はもう50代なのよね。驚愕。